あなたのご自由に

 彼女はいつも、窓際に座っている。席替えは毎回くじ引きで行っているのだが、どういうわけか彼女は、今まで一度だって前から三番目の窓際の席から動いたことがない。どんな方法で定位置をキープしているのか、どうして定位置をそこに決めたのかは彼女のみぞ知ることである。彼女は基本的に、人と喋らないのだ。でも俺が勝手に想像させてもらうとすれば、おそらく、年度初めの出席番号順の彼女の席が、偶然あそこだったからなのだろう。
 そんな彼女に俺が話しかけることになったのは、本の些細な偶然に過ぎなかった。それはもうあんまりにも些細なので、忘れてしまったほどだ。とにかく俺は、ある日の昼休み、後ろの席の彼女へと振り返り、何かを話しかけた。周囲にはイケイケで無駄にテンションの高い奴らが陣取って、何か騒ぎながら弁当をつついていたのだが、このときばかりはちらちらと横目でこちらを窺っていたのは覚えている。二言三言、彼女と俺はつまらない会話をしたし、何かちょっとした冗談でお互いの顔に微笑みすら浮かんだ。そうしているうち周囲がこちらに向けていた注意はいつの間にか薄れ、やはり今まで通り、イケイケたちは携帯電話の猥褻な画像で盛り上がっている様子だった。
「******、*******。」
 彼女が何か言ったがその騒ぎにかき消され良く聞こえず、俺は適当な相槌を返した。それに合わせ彼女もちょっと頷く。と、セミロングの黒髪が揺れて、その隙間からピアスの穴が空いた耳が見えた。それほど校則のきつい学校でもないが、違反は違反である。俺の少し窘めるような視線に彼女も気づいたらしく、なによ、と抗議の表情で応えた。彼女は気分を悪くしたようで窓の外を眺め始めた。俺はまだその時彼女に興味はあまりなかったし、折良く五時限目の予鈴がなったので、前を向き直しごそごそと数学の教科書を取り出した。

 放課後になると彼女がすくっと俺の前に立った。クラスメートたちは部活動に帰宅にと足早で教室を後にしてゆく。
「先生に、言うつもり?」
 俺はすぐにピアスのことだと分かった。
「いやそんなつもりはないよ。人が説教されるのが好きってわけでもないし……ね。」
 好きってわけでもないし、赤の他人の彼女に関わる必要もないと思う。後半部分は冷たい印象を相手に与えるだろうから、胸の内にしまっておいた。
「へえ、そう? まあ、どっちにしろ穴もすぐに塞がりはしないか。」
「ねえ、そんなに告げ口されたくないの?」俺は訊いた。少々嫌な質問だったな、と口にしてから自分で気づいた。
 しかし彼女は少し険しい目をして「好奇心があっただけ。」と呟くように言っただけだった。


 そして今日の今現在、彼女は教室の窓から飛び降りようとしている。校舎四階の窓から、暖房の効いた室内へ冷たい空気が吹き込んでいる。賑やかな昼休みの教室は一変し、静まりかえった。誰もが爆発寸前のダイナマイトには近づかないように、彼女に自殺をやめるよう説得しようともしなかった。それでも一人は善意ある人間がいたのか、情報を聞きつけたらしい体育教師が廊下を駆けてきた。
 そいつは「やめろ!」と怒鳴って教室のドアを開け、ずかずかと彼女に近づこうとした。
「こっちに来ないで!」彼女が今まで一度も聞いたことのないような大声で叫んだ。
「やめろ、御両親が悲しむぞ!」教師はそんなまるで学園ドラマのセリフを吐く。
「そんなの知らない、私の人生は私のものよ! 自殺するのも自由なんだから!」わめき散らして、彼女は高さ十二メートルを落下した。
 生徒たちが一斉に窓際へと殺到し、俺も彼らと一緒に、赤黒く染まった彼女のYシャツを眺めた。


「薬物中毒の女子学生が飛び降り自殺」と新聞には掲載された。娘を薬物中毒にし自殺するまで放っておいた両親たちは、今になってわりと嘆き悲しんでいるらしい。
 俺もクラスメイトの一人として葬式に招かれた。久しぶりに雨が降っているので、親戚の誰かが「空も泣いております。」などと挨拶を述べていた。
 焼香の順番が廻ってきて、彼女の遺影に手を合わせながら、「煙臭さがついてるかもしれないから、服を洗濯しないと。」と考えた。彼女の死を悲しまないのも、俺の自由だ。

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