毒薬は誰を殺す

 それはある、いつもより寒い冬の日のこと。一人のやせた中年女性が、二人組の男と、都会のあるビルの一室で、低い声で相談している。女は男の、男は女の本名を知らない。彼らは互いを仮名で呼び合っていた。
「これがその薬ですか」
 男の片方がジュラルミンケースから出した、粉末の入った小さな小さな瓶を見て、女性は思わず声を上げた。粉末とは、証拠を残さずに人を殺す新薬である。それを望み続けた女性が声を上げぬはずがない。
「値段は、一千万円です」
「へえ、思ったよりも安いわね」
 夫を殺して手には入る遺産を考えれば、全く高い買い物ではない。
「ええそうです。ただし以前にも説明したとおり、これはまだ試用段階なのです」
「試用段階って、この薬で、きちんと確実に、夫を殺せるんでしょうね?」
「ええもちろんです。ここだけの話ですがね、先月亡くなった政治家の*****さんもこの薬で息子に殺されたのです」
 テレビや新聞では急性心不全と報道されていた。何の変哲もない、全くの突然死。検死の結果も全く他殺を疑うようなものではなかったそうだ。
 これなら誰にもばれることはないと、女は思った。ばれなければどんな悪事を働いても良い。夫の口癖である。小汚い男だ。政治家への献金、マスコミ各社への圧力といった、あくどい方法で某巨大多国籍企業の会長兼最高経営責任者にまでのし上がった。そして、最近、雇った探偵に、夫が浮気をしているとの調査結果を聞かされた。それでも私は知らないふりをしているけれど。
「では買います。今すぐ、現金でも良いかしら?」
「ええもちろん。私どもにとってもそれが最も好都合です」
 女は高級ブランドのバックから、白い帯で止められた一万円札の束十個を取り出した。
「確認しますが、記番号はバラバラですよね?」
 ぱらぱらとその束をめくりながら、男が訊く。
「ええもちろん」
 その返事を訊くと、男は、ジュラルミンケースから小型の機械を取り出した。それの小さな口に一万円札の束を差し込む。機械の上部に表示されている数字が、一から百まで、三秒ほどで数え上げられる。男はその動作を全ての札束に行った。
「確かに一千万円、きっかりあるようです。この薬に関して、何か質問はありませんか? 昨日まで連絡に使っていた電話は解約するので、今のうちに尋ねたいことは尋ねてください」
 男たちの商売は信用第一だ。万が一、自分たちが逮捕されたときに顧客へ迷惑がかからないよう、コンタクトをとった痕跡は消しておかなければならない。
「ああ、そういえば。この薬は一度に全部使うべきですの? 聞いていたより少しだけ量が多いみたいですけど」
「いえ、この瓶には致死量の二倍の薬を入れてあります。失敗したときのためです。くれぐれも一度に全てを飲ませないでください。多く使いすぎると、体内に薬を使った痕跡を残してしまいます」
「分かったわ。では、さよなら」
 女はその部屋を立ち去る。ビルの外に待たせておいた高級外車に乗り込む。
「毎日毎日、営業が大変ですね」
 お抱え運転手が言った。
「ええ全くだわ。でも、これで夫の会社が大きくなると思えば、苦ではなくてよ」
 低いエンジン音を残して車は出発。
 男たちはそのきっかり三十分後にビルを出て、街の雑踏へと紛れて消えた。




 二日後。女とその夫は高級フランス料理店で食事をしていた。店内には印象派で有名な作曲家の軽快な音楽が流れ続けている。もちろん録音したテープではない。生演奏のピアノである。
「やっぱり、ここの料理はいつ食べてもおいしいわね」
 女が絶えずフォークとナイフを動かしながら、しかし不作法でないように夫に話しかける。
「ああそうだ。この店は友人がシェフを務めていてな、学生時代から料理の上手なやつだったよ」
 そういってから夫は立ち上がろうとする。
「どうかしましたの?」
「いや、ちょっと御不浄へ。この年になるとどうも近くていけない」
「全く、情けない。早く行ってらっしゃいな」
 女はしかめ面をする。しかし内心は満面の笑み。薬を入れるチャンスだからだ。
 ひじでテーブルの端にあった、水の入っているグラスを床に落とす。華奢な硝子の割れる音がして、水がカーペットへ飛び散り、吸い込まれた。
「あらまあ。夫婦そろってすみません。替えを持ってきてくださるかしら?」
 女の後に控えていた給仕へ、言う。
 女の後にいた給仕は新しいグラスを用意しに行った。夫の後にいた給仕は、割れた硝子を片付けようと、しゃがむ。
 誰も見ていない。それを確認し、ちょっと立ち上がるふりをして、夫の水へと例の毒薬を溶かす。
「いえ、立ち上がっていただかなくても、結構でございます。このままで片付けられますので」
「そうですか、すみませんわね」
 女はすました顔で座り直した。


 そろそろ効きはじめるかしら。女は胸を躍らせながらそんなことを考えていた。
 薬を購入する前、男たちは、体内に薬が入って五分以内に心臓が止まって死ぬ、と言っていた。トイレに行って戻ってきた夫が一口で薬の入った水を飲み干して、時計がないから正確には分からないが、もう三分は経っただろう。
「どうした? 妙に嬉しそうじゃないか」
「いえ、何でもありませんわ」
 言った夫こそ嬉しそうだ。きっと、ついさっき目を見張るような美人の客が通り過ぎたからに違いない。それも露出度の高い服で。愛人を囲っているくせに、どうしてそれでもまだ気を引かれるのかしら。
 私はすこしむっときたが、まあ、これから極めて近い未来を考えると、許せるかな、と思った。
「ところで、料理の味がいつもと変わったりしないか?」
「どうしてそんなことを訊くんですか?」
「うん、いや、前菜のサラダが前に来たよりもおいしかったかなあ、と」
 心の内でため息。薬を入れた水の味がおかしくなっていたわけではないようだ。
「別にそんなことは思いませんが」
「そうか。そうか、ならいいんだ」
 ゆったりとしたペースでそんな会話を交わす。これからおこることを夫は夢にも思っていないのだろう。そりゃあそうだ。夫は国内外の暴力団やマフィアとも太いパイプを持っている。だから手を出そうという人間は、まず居ないだろうというわけ。
 夫はちらちらと腕時計を見て、せわしない様子だ。仕事でもあるのだろう。せいぜい私の遺産を増やしてくれればいい! でもそれも無理か。だって、もうすぐ、ね。


 しかしその後、明らかに五分以上待ってみても、夫はただ料理を食べているだけだった。おかしいわ、今頃はとっくに死んでいるはずなのに。
 総じて薬というものの効能には、個人差がある。昔から夫は風邪薬などの効きにくい体質だ。この毒薬にもそれは当てはまるのだろうか。
 もう一度薬を入れてみようかしら、とも思ったが、致死量を超えると薬を使った痕跡が残るという。
 しかしかといって、今使わなければ、次回も夫は死んでくれないかもしれない。
 どうすればいいのかしら。
 悩むと、自然と口数が減った。夫も女が喋らないのを機嫌が悪いからだと思ったのかそうでないのか、とにかく会話を始めようとはしなかった。
 静かな静かな、食卓だった。




 そしてまた二日後。女の携帯電話に非通知の番号から電話がかかってきた。いつもは登録してある番号以外からの電話はとらないのだが、何か予感がして、そのときは電話に出ることにした。
「もしもし」
 受話器の向こうから聞こえてきたのは、忘れもしない、薬を売った男の声。
「あなた、あの薬、効果がなかったのだけど。どうしたらいいのかしら? 一応、あと一回分は残してあるわ」
「ああ、その話ですね。それについてはどうしても無理ですよ」
「え?」
「なんたって、ただの白い粉ですから。本当に人畜無害。無味無臭のただの粉です」
「あなたっ、人をバカにして! だまし取ったお金はどうして下さるのかしら!!」
 一千万円など、女にとっては端金であるが。
「ああ、これ、覚えてます?」
 何かのスイッチを押す音。
『この薬で、きちんと確実に、夫を殺せるんでしょうね?』
 音質は悪いが紛れもない女自身の声。
「こんなものを録音してみました。今までの取引、全部CDに記録してバックアップもしておきました。というわけで、○○銀行の*****の口座に今度は五百万円を振り込んでおいてくださいね」
 どこか笑いを含んでいる、男の言葉。
「そうそう、ついでに面白いことを教えて差し上げます。じつはあなたの夫も、あなたを殺そうとしていたんですよ。料理人を買収して、薬を入れさせて。なんと、そちらでも私たちの薬をご使用下さいました。重ね重ね御礼申し上げます」
 女が返事するより先に、それに割り込むような故意の無神経さで、男は続ける。
「別にあなた方で殺し合いでも何でもしてください。そうすれば私どもへの報酬も増えますから。雇い主の手を少しも汚さずあなたか夫を殺せるんですからね。どちらにしても今の地位は失いますよ。はは。
 ま、長い目で見れば、ずっと生きてくれた方が良いんですけどね。ふふ、私たちのために、もっと稼いでくださいよ。そして長生きしてください。死んでしまっては元も子もありませんからね。うふふ」

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