帰りたい

 ――帰りたい。自分がどんな場所で生まれたのか、見てみたい。
 僕の生まれ故郷は海だ。左胸と右の太ももに少しだけ残る、つやつやで銀色の鱗だけが僕が半漁人の証。
 半漁人の子供である僕は、けれど透き通る背びれも水を蹴る尾びれも持たない。これじゃあまるで人間だ。だから今まで、普通の人間の子供として生活している。
 僕は生まれてすぐ、お父さんの人間の友達の家に預けられた。そのおじさんは僕を本当の家族みたいに扱ってくれた。お金持ちではないけれどお小遣いは毎月くれたし、夕食だって毎日作ってくれる。おじさんは結婚していない。

 ある日、町のことをよく知っている友達に地図を作ってもらった。ノートのちぎったページに描かれているそれには、僕の家から海までの道のりが、赤ペンでひいてある。それをしわくちゃにならないように折ってから、ジーンズのポケットに入れた。玄関で靴を履く。トントンとつま先で地面を叩き、踵を入れる。海に行こう。海に行こう。海に行こう! テレビの天気予報は全国的に晴れ、冬の近づく青空には白い雲が浮かんでいた。



 ぼろぼろの自転車にまたがり門を出る。二年前の誕生日に買ってもらったものだ。戸締まりはさっき確認済み。窓もドアも全部閉めてなくちゃいけない。
 僕の家はへんぴなところにある。三階建てより大きい建物なんて病院しかない。空気の少し抜けたタイヤで田んぼや空き地の脇を走り抜ける。十二月になっても今年は暖かく、遠くの山にはぽつぽつとミカンのオレンジ色が見える。地面の舗装は悪いけれど、頬を撫でる風はすっきり冷たい。家を出てすぐは自転車をゆっくりこいでいたが、なんだか待ちきれなくて、自然に足の回転は速まっていった。商店街の出来損ないみたいに集まっている八百屋さんや、群れを作っているような一戸建、町に二件しかない駄菓子屋、全部があっという間に過ぎてゆく。
 踏切にさしかかると電車が来たらしく、遮断機が僕を遮った。歩いていたおじいさんも、ベビーカーを押している女の人も、みんな立ち止まる。ただ、電車だけが通り過ぎてゆく。速すぎてどんな人が乗っているかはよく見えない。
(これはちょうど良い機会だ)
 地図を取り出す。まだもうしばらく、海に着くまでに時間がかかりそうだ。
 やがて遮断機が上がると、ビデオの再生ボタンを押したようにみんながまた歩き出す。僕も出遅れないように強くペダルを踏んだ。自転車は苦しげな声で、コキコキと鳴いた。

 僕の友達は、誰もこのあたりに住んでいない。道を進めば進むほど、風景は見慣れなくなってゆぅ。誰が住んでるのかも知らない住宅地。建ち並ぶ家はあまりに平凡で、僕の記憶に残ることはない。ポケットの地図だけが頼りだった。何度も目印を確かめる。
 無いはずの角が有ったり、有るはずの坂道がなかったりした。何度か袋小路に入り、同じ鳥居を何度もくぐる。誰かが僕を観察していたなら、さぞ妙な風に見えるだろう。なんだか恥ずかしくなって、行き止まりにぶつかるたび、僕はそそくさと来た道を引き返す。汗が出てきた。決して気温のせいではない。
 知らない人に話しかけるのは怖かった。でも、それでも道を尋ねようと思った。しかし人っ子一人見あたらず、それすらできない。主婦の皆さん、もっと出歩いて散歩しましょうよ。そんなつまらない冗談を心の中でとばした。
 遠くから電車の音が聞こえる。海の近くにも、僕が見かけた電車の止まる駅は、あるのだろうか。
 長い時間ずっと僕は住宅地の中にいる。もう本当はとっくに海に着いているころかもしれない。どうやら僕は道に迷ってしまったらしい。

 地図を何度広げても、僕がどこにいるか分からないのだから、役に立つはずもない。間違っていたのは地図か自分か。息苦しくなるような苛立ちを感じて、僕は地図を何度も破ってしまった。紙を破る感触がなんだか楽しい。千切れた紙片はどんなパズルよりも複雑。これでもうただの紙くずになった。
(どうせなら、ここでばらまいてしまおうか)
 そんな考えがふと頭をよぎる。白い紙切れがひらひらと舞うのは、それはそれでおもしろそうだ。でも、やめておいた。どんな小さな紙片も逃さず、ポケットに突っ込む。いや、突っ込もうとする。一枚だけが僕の指の隙間から落ちた。
 それを拾おうと地面にしゃがみ込むと、一つの小さなお地蔵様が目に入った。きっともう拝む人もいないのだろう。柔和な表情は苔で覆われ、家と家の敷地の隙間に、忘れられたように立っている。僕はそれに向かって、手を合わせた。海に行かせてくれと頼んだわけではない。ただ、なんだか僕と、このお地蔵様は似ている気がした。

 空を見上げる。一羽だけ、鳥が飛んでいた。
(あの鳥は、どこへ行くのだろう)
 僕は自転車にまたがった。追いかける。自転車は文句の一つも言わず、僕のために走ってくれる。それでもまだ速度はたりない。曲がり角を曲がるたび、太陽のまぶしい光が目を刺すたび、見失いそうになる。待ってくれと呼びかけても、鳥は羽を休めない。
 買い物袋をぶら下げた主婦とすれ違う。道を訊く暇はない。空を飛ぶ鳥は、まっすぐ飛び続けている。迷いなんてきっと無いのだろう。地面の舗装がアスファルトに変わった。速度が上がる。住宅街を抜け、空き地が目立ってきた。空を遮るものは何もない。
 アスファルトの、壁が見えた。腰くらいまでの高さ。僕は自転車を乗り捨てる。そして上に手をつき、その壁――防波堤――に飛び乗る。海が開けた。体を大の字に広げる。潮の匂いがした。

 階段を探し砂浜に下りた。冷たい冬の海。それでも僕は、そこへ飛び込んだ。半漁人だと知られないよう、海にもプールにも行かず、もちろん泳げやしない。それでも飛び込んだ。

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