きっと背中に乗せて

(ああもう、早く終わらせよう……。)
 あなたは自転車の空気入れを片手に、家の玄関から出てきたところだ。もうすぐ新年の訪れる頃。いつもより少し暖かい十二月の夜中のことだった。
 そういえば自転車のタイヤの空気が抜けてきてたなあ、と思い出したのがついさっき。もうすぐ日付の変わろうとする時刻だった。空気を入れるのは明日でも無理ではない。けれど、登校前の朝早くにそんなあわただしい作業をしたくはなかった。
 今晩は月が明るい。満月だ。空気入れポンプの表面が光を反射する。闇に目が慣れてくると、懐中電灯は必要なかった。あなたはしゃがみ込んでさっそく作業を始める。
 タイヤの栓を開ける指が痛い。気温が低いので、栓の表面の凹凸が皮膚に食い込むのだ。タイヤの空気を入れるところは弁になっているので、栓を抜いても空気が漏れてくるわけではない。あなたは少し一段落しながら、
(これって栓の意味はあるのかな。)
 と考えた。
 不意に足下に大きな影が落ちる。雲が月光を遮ったのだろう。そして空から滴が落ちてきた。一滴、二滴、三滴。コンクリートの地面に黒ずんだ染みを作った。
 なんだろう、と思ったあなたは空を見上げる。そこには竜がいた。自転車のゴム栓を片手に、子供の頃の絵本を思い出していた。


 地上からでも分かる赤く大きな体。胴体を支える広い翼。竜の長い首がこちらを向き、両目があなたを見た。狭い場所にいては逃げ場がない。そう考えて家の隣の軽く百台は停められる駐車場へと走った。今は夜中。さすがに車の数は片手で数えられるほどしかない。
 竜は羽ばたくのをやめ、必死で逃げるあなたに向かい滑空してきた。駐車場の砂利が走る足を不安定にし、逃げる速度を奪う。このままではあなたは噛み殺されてしまうだろう。あなたがいくら走ろうと、竜はその巨体からは想像もできない速度で迫ってくる。自分の右手がまだゴム栓を握っているのに気づいて、それをどこかへ放り投げた。あなたの首筋に、生暖かな竜の息がかかる。もうダメだ。
 後ろから強烈な風が吹いた。あなたはそれに半ば吹き飛ばされるかたちで地面にこける。体を起こすと、竜は二三度羽ばたいて地面に軟着陸するところだった。

「そんなに逃げなくても良い。」
 どこからともなく、イヤホンで音楽を聴くときのように、降って湧いたような声が頭の中で聞こえた。もうあなたは逃げていない。
「このあたりに私が隠れられる場所はないか?」
 どうやら声は、目の前の竜のものらしい。
「そ、そそ、そんな場所はないですよ。」
 しどろもどろになりながら口で答える。何せ一軒家ほどの巨体。隠れられる場所などそうそう見つかる物ではない。
「ふむ、そうか。それは困った。」
 独り言で竜が呟く。
 よく見ると竜は、体中の至る所に傷を負っていた。今も絶え間なく地面に、赤い血液がしたたり落ちている。
「ねえ、その傷じゃあ空を飛ぶのもつらいんじゃない?」
 訊いたあなたに竜は、まあな、と深刻そうに言った。
「じゃあついてきてください。隠れることはできないけど、良い場所があるんだ。」

 あなたは竜を近所の公園に連れて行った。山の上にあるその公園は、竜が空を飛べるならあっという間につくが、今は歩いていくしかない。竜が一歩歩くたび、あなたはアスファルトが割れないかと心配したが、そんなことはないようで安心した。
 公園に着くと足洗い場の排水溝にハンカチを詰まらせて、全部の蛇口を全開にする。しばらくすると水がだんだんと貯まってきた。
「喉は渇いてない?」
 あなたは竜にそう尋ねた。尋ねてから、自分の行動は間違いだった、と思った。少なくともあなたはこんな場所の水を飲みたくない。
 竜もそんな考えに気づいたらしい。
「いや、ここの水で十分だ。私たちは、雑菌や毒に対して人間よりも頑丈なんだ。」
 竜が口を付けると、あふれ出しそうだった水がぐんぐんと減ってゆく。しばらくすると竜は一息ついた。あなたは訊く。
「ねえ、どこから来たの?」
「別の惑星さ。」
 竜は天高くを見上げ、喉をごろごろと鳴らした。人間は宇宙へ出ようとこの狭い地球でもがいている。けれど確かに、竜の翼ならばどこへだって行ける気がした。
「飛んでいると小惑星にぶつかって、ちょっと怪我をしてしまったんだよ。だからこの星に立ち寄ったんだ。」
「この星は、地球っていう名前なんです。」 あなたは言った。
「知ってるよ。」
 竜は答えた。
 一人と一匹と、並んで空を見ていた。
「よければ体を流してはくれまいか?」
 少し遠慮がちに竜がお願いした。
 なるほど大きな湖でもあればそこに潜るだけで良いだろうが、近くにそういう所はない。
 あなたは何か、水を汲める物を探した。すると公園の片隅に穴の空いたバケツを見つけた。ちょうど良い頃合いに、足洗い場には、再び水が満ちてきている。
 あなたはそれを取ると竜の所に駆け戻った。
「まずは首のあたりから頼む。」
 竜は水がかかりやすいよう、人間の胴体よりも太い首を曲げた。
 あなたは水をぶっかける。穴から水は漏れるけれど、それでも、両腕がへとへとで肩まで上がらなくなる頃には、竜も満足した。
「ありがとう。重ね重ね、本当に助かった。私から何もできないのが悔やまれる。」
「ああいや、別に良いんだ。」
 肩で息をしつつあなたは笑った。
「そう言ってくれると助かる。礼の言葉も見つからぬほどだ。」
「それより、そんなに傷だらけだと、直るのはまだまだ先でしょう。どうするつもり?」
「大丈夫さ。竜の治癒能力は人間のそれよりもずっと強力だ。明日か明後日には、帰るのに十分回復する。」
 そっか、帰るんだ。あなたは少し残念に思った。けれど竜がそれを望んでいるのだから、少し嬉しくも感じた。
「さあ、家に帰って寝るがよい。他の人間たちはみんな眠っている。そちらだって、普段は同じなのだろう?」
「うん、まあ、そうかな。じゃあ帰るよ。」
 竜は頷いた。
 あなたは山を下りて、車のない駐車場を横切り、落ちている空気入れを家の中に回収し、着替え、ベッドに寝ころんでその日は眠りについた。



 翌朝は三十分の寝坊。食パンを口にくわえて登校……はしないけれど、それでも十分危ない時刻。支度を手早くすませ、あなたはサドルに飛び乗り家を出た。
 昨日夜更かししたせいか、授業は少しばかりうとうとしてしまった。けれどまあ、優等生でも劣等生でもなく、あなたは平凡にその日の学校を終えた。


 冬は日が落ちるのが早い。あなたは帰り道、徐々に夕暮れの近づく空を見ていた。嵐の前の静けさ、とも言う。帰宅ラッシュ前の道路は車も少ない。自転車をこいでいると心地よい疲労感が体を浸食する。
 赤信号。あなたは自転車を止めた。まばらな自動車が目の前を通り過ぎてゆく。
 バタタタタ……あの何とも独特な、ヘリコプターの音が後ろから聞こえてきた。桃色の空を横切る二機のヘリコプター。案外と低空らしくエンジン音は大きい。あなたの方へとやってきて、すぐに追い越した。
(どこへ行くんだろう。)
 少し考えて、自転車のタイヤに目をやる。栓のない空気弁。昨日の夜のこと。血の気のひく嫌な感じ。頭のてっぺんから、何か冷たい物が体を通り抜ける。青信号。今までよりもずっと強く強く、あなたはペダルを踏んだ。三年前のお祭りで買った安い腕時計は、十六時三十分を指している。


 家に自転車を乗り捨てる頃にはパトカーを何台も見つけた。大量に並んでいる警官。その表情は一様、緊張の色が浮かんでいる。さらに野次馬の数は数え切れない。集まってみたのはいいものの、これまで体験したことのない事態に、どう騒ぎ立てればいいのか知らないのだろう。アマゾンの奥地で昆虫の新発見がされることはあるが、竜が出たなんて今まで聞いたこともないニュース。本来は戯れ言でしかない。そんなお伽噺が、実に具現化したのだ。人間たちが竜を捕まえれば、解体して実験材料にするか、剥製の置物にしてしまうかのどちらかに違いない。
 あなたに聞こえるのは「家の中へと待避してください。」というメガフォン。そして群衆のざわめき、無線機に向けて何か早口にまくし立てる警官の声だけ。
「竜が現れた。」と。
「住民の安全確保を優先、指定区域には絶対に立ち入らせるな。」と。
「ねえお母さん、どうしたの?」と。
 十以上のヘリコプターのプロペラ音がバック・グラウンド・ミュージック。中空を徘徊する彼らは、まるで空は人間の物だと誇示しているようにも見えた。どんな映画だって再現できない、複雑に絡み合った高速ビート。あなたの心臓はそれにつられ、いやが上にも心拍数を増す。


 山に忍び入るのは難しい話ではない。野次馬だって魔物のいる場所に近づこうとは思わない。警官もそれを分かっている。道路以外の場所、たとえば木立の並ぶただの斜面には、見張りどころかネコの一匹すらいない。
(なに、坂道は実際の角度よりも急に見えるだけだ。)
 山を見上げる。道なんて無い。あなたはそこを難なく駆け上がった。
 まず探すのは公園。草むらを抜け道に出ると、あなたは駆け足でそこへ向かった。誰か人間に見つかればつまみ出されるに違いない。
(それならそれで、何度でも挑戦するさ。)
 あなたは考えた。
 けれど現実に考えて、タイムリミットはある。彼らよりも先に竜を見つけなければならないのだ。

 公園に着いた。やはりあの巨体は見たらない。足洗い場のハンカチはどこかへなくなり、水が貯まっていることもなかった。あなたが置き忘れたのを、誰かが取り除いたのだ。
 走る。十二月の気温は低い。まだ大丈夫、体はオーバーヒートしない。この山は人間が探し尽くしたことだろう。竜だって移動しているに違いない。公園のある低い山の背後には七百メートル級の尾根が続いている。あなた一人で捜索するには広大すぎる面積。いくら竜の体が大きいと言っても、山に比べれば小さなものだ。それを探すなんてばかげた話。それでもあなたは行く。行かなければならないと、あなたはそう思った。
 アスファルトを乗り越え林の中へ。するとどこかで銃声がした。そういえばイノシシが出たときなどは猟銃を持って狩りに出たりする。人間が弾丸を放ったというのならば、それはきっと、竜が近くにいるからなのだろう。あなたはそちらの方角へ向かった。
 近づくと銃声は、金属製のバケツを叩くような、バガンッ、という音にかわった。近くで聞くと、また、違う。人間たちに気づかれぬよう、木の陰から様子をうかがった。彼らは農家の人が作った農作業用の林道にいた。きっともう働き手がいなくて手入れされていないのか、地面は無惨に荒れ放題。なるほどこれは良い考えだ。農業用の車ならいざ知らず、普通の車両の入れる道ではない。徒歩で追いかけるしかない、というわけだ。これなら竜にも勝算はある。さらにこの林道は驚くほど入り組んでいる。まるで狂人が気まぐれで描いた迷路。昔、航空写真を見て驚いた覚えがある。あなたは音を立てずにそこをそっと立ち去り、林の中を早足で進んだ。
 やがてまた銃声が。一、二、三……四発も。追っ手の数は多い。あなたは少し焦り始めた。それでもできるのはひたすら探すこと、流れ弾に当たらぬよう祈ることだけだった。
 足は地を蹴り、手は枝を払う。林を切り開いて作られた林道、その奥から恐竜のように走ってくる大きな体を見た。全くの偶然。これまでにないほど幸運に感謝した。
「やっと会えた! ずっと探してたんだ。」
 小声で、けれど強くあなたは竜に呼びかけた。竜は走るのをやめる。
「わざわざ巻き込まれに来てくれたのか。本当に面倒をかけるな。」
 懐かしさすら覚える、頭の中の声。
「いや。それよりも傷は大丈夫?」
「ああ。かなり回復した。彼らが撃っているのは麻酔銃と見えるが、あんな物、人間の致死量の百倍はないと私は眠りはせんよ。」
 強がり、だろうか。体から湯気が立ち上り、多少の疲労を竜は見せている。
「さあ、早く行こう。このあたりは一度、来たことがあるんだ。」
 昔の話である。当時は道に迷ったけれど、今ならその経験を地の利として生かせる。
 あなたと竜は再び走り始めた。今は一人ではない。疲れているとはいえ、竜はあなたの速度に十分ついてこれている。
 急にあなたの手首、正確にはそこに巻き付いた腕時計が鳴り始めた。ちゃちな、けれど大きな電子音を周囲に振りまいている。音を止めるはずのボタンを押しても鳴りやまない。
「何だ、それは?」
「ああもうこのポンコツ。なんでもない。」
 あなたは腕時計を投げ捨てた。
 山の中腹あたりを、上るでも下るでもなく、少し蛇行した道で進む。下に行くと人間に見つかるおそれがあるし、どの林道も、山頂近くは行き止まりが多いためだ。
 農業をする人の生活の中から生まれたこの林道の複雑さは、しかしあなたたちの大きな助けとなっている。不慣れな人ならば迷わず進むのは不可能。いつの間にか暗くなりかけている空をたまにヘリコプターが通り過ぎる。けれど発見されたとしても、ここまでたどり着けなければ意味はなかった。


 しかし体力には限界がある。竜の強靱な躯はまだ十分な活力を保っていたが、あなたの体には非常な負担がかかっていた。ありとあらゆる筋肉が酸素を求めている。そういえば水分だってたりていない。服を絞れば汗の垂れてくるほどだ。舗装の悪い道に、足だって痛くなる。どちらからともなく、走る足を遅くした。もう追手の気配はなかった
「大丈夫か?」
 竜が問う。
 呼吸で精一杯なあなたは、答えられない。
「もう帰った方が良い。あんまり遅くなりすぎると、それはそれで騒ぎになる。」
「でもそっちはどうする気?」
「もうすぐ夜だ。暗くなれば私だって見つかりはしない。」
 このままついて行っても、あなたは後々、足手まといになる可能性が高い。
「じゃあ、教えられることだけ教える。良く聞いてよ。」
 どの方向に行けば山地が続いているか、平地に出てしまうか。おおざっぱな知識ではあるが、それでも無いよりはマシだろう。
「なるほど、助かった。」
「ねえ、本当に大丈夫なの、これから先。」
「明日の早朝には飛び立てるだろう。そうすれば宇宙まであっという間だ。人間たちの鉄の翼では追いつくこともできまい。」
「じゃあ、これで完全にお別れか。」
 あなたは言った。ちっとも寂しくなんか無いと、思いこもうとした。心の中でそう言い聞かせた。
「そういうことになる。早く帰った方が良い。家族が心配するだろう。」
 竜の声の聞き納め。早く行け、と長い首を振った。あなたは背を向け、振り返った。そして小さく頷いてみせる。それを確認し、竜は先ほどまでよりも少しだけスピードを落として、けれどさっと森の中へと消えていった。

 林道のその複雑さのせいで、かなり道を引き返さなければ山からは出られない。
 竜を無事逃がしたという安心感からか、疲労が津波になって体を襲う。四肢はふぬけてしまい、糸のない操り人形になってしまった。吐く息さえへろへろに曲がっていそうな倦怠感。凹凸の激しい地面を歩くには、あなたの体は少しばかり消耗しすぎていた。足の裏がアスファルトの感触を愛おしく思う。
 だからだろうか。魔が差してしまったのは。あなたは林道を通らず、山を登ったときのように、何もない斜面を下った。それはなんと愚かな行動。既に辺りは暗く、視界すら悪いというのに。少し歩いて、右足に地面の感覚がないと気づいたときにはもう遅かった。あなたはちょっとした崖に気づかず、そこから落下した。

 目が覚めると、あなたは歩くことすらできない体になっていた。立ち上がることは、不可能ではない。激しい痛みを伴いはするが。気を失って一夜を明かしたらしく空は薄明るい。目をこらしてよく見てみれば、がけの縁の部分には、茂った草のシルエットが見えた。それらが崖の切り口をカモフラージュしていたのだ。今はまだ体中が焼けているだけ。やがては尋常でない痛みを帯びてくるのだろう。
 何時だろう、と思って手首を見る。腕時計。けれどそこにはなかった。そうだ、あなたは捨ててしまっていたのだ。動く方の左手で頭を抱えた。あたりを見渡す。そこには、落ちていた。あの時計が。
(あはは、こんな状況なのに幸運だなあ。変な話さ。)
 それでも時刻は分かった。午前六時過ぎ。竜はもう帰っただろう。家に帰ったらどういう言い訳をしよう。いや、家に帰れたら、か。
 あなたはここで朽ち果ててゆく自分自身を想像した。動かない手足、飢えと渇きに干からびる体。それは最もありえる未来。
 時計が鳴った。ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ。
 そしてあなたは朝焼けの空を見上げた。鳴り続ける腕時計を左手に。あのときと同じ。ずっと音は止まらない。
 地上からでも分かる赤く大きな体。胴体を支える広い翼。竜の長い首がこちらを向き、両目があなたを見た。

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